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2005年04月21日
おいらは整備士
明日は早朝から仕事っす。
弟が単車壊してきたから、放置現場に行って修理せねばならんのです。
内容は大したことなくて、後輪のスポークが折れてパンクしたと。
要はパンクを直しつつ、スポークを新品に交換すればいいだけのこと。
そして何故か新品のスポークが物置にあるのが痛い。なければ行かないのに。バイク屋に任せるのに。
根っからのバイク好きですから、私。
多分ノーギャラです。何故なら借りがあるから。
しばらく忙しいから明日くらいは休みたいなあ。
投稿者 daurade : 21:46 | コメント (6615)
2005年04月19日
カルソバーラ
今日は午前中レジュメを作成。午後からのゼミに供えてそろそろ昼食の準備をせねばと思い、私は台所に向かった。
冷蔵庫の中に食材らしきものはほとんどない。冷や飯があれば炒飯でもと思ったが、それもない。チルドルームにはソーセージとチーズ。
気分ではなかったけれどカルボナーラを作ることにした。幸い卵は沢山ある。大鍋に湯を沸かし、材料を揃えた。
ちょうど弟が起きてきたので、カルボ食うか聞いたが、寝起きでそんなん食えるかって言われたからしょうがなく一人分作ることにした。私は24時間年中無休で食えるが。
ソーセージを適度な大きさに切り取り置いておく。卵は黄身だけを器に入れ、そこに牛乳を100mlくらい。そしてコンソメのもとか鶏ガラスープのもとを入れるのが、私流だ。それらをよく攪拌し、最後にチーズを適量入れておく。
そうこうしていると、大鍋の湯が準備完了とばかりに私を呼ぶ。そして私はシンクの下にあるパスタを取ろうとした。そう取ろうとしたんだ。
扉を開けても見慣れたパスタの袋はどこにもない。タッパーの中にもない。あるのは春雨とわかめ。そしてソバ。
私は屈めた体を起こすと鍋を見た。材料を見た。そう、カルボナーラを作るんだ。
でもあるのは春雨とわかめとソバ。もう一度材料を見る。でも何も解決しない。
ダッシュでスーパーか?!しかし時間はない。
選択肢は4つ
1 カルボあきらめる→そんでざるそば
2 わかめでカルボ
3 ソバカルボ
4 春雨でカルボ
1はない。既に材料を準備している段階で気分はカルボ。2もない。わかめは意味が解らない。3か?いや、ソバは無理だろ。じゃあ4か?春雨。
案外いけそうじゃん!春雨!
いやしばし待て。今日はゼミだ。絶対腹がもたん。春雨却下。そして湯はぐらぐらと催促する。
致し方ない。3で。賢明な読者は普通に1だと思うだろう。俺も思ったさ。ネギ切ってさ、めんつゆでつるっといこうかと思ったさ。でもカルボの気分だったんだもん。
ソバ茹でて、フライパンにバター溶かしてソーセージ炒めて、茹で上がったソバをフライパンにドーン!迷ったら負けだ。ソバにバターとソーセージが絡まったら、器のソースをフライパンへ。うーむ、いい塩梅にソースが絡んできた。
・・・・・・・・・
腹が減ってたのが不幸中の幸いであった。
夜帰宅してババア、もとい母上にパスタくらい常備しておいた方がよろしいんではないでしょうか?って言おうとしたら、先手を打たれた。
あんた、めんつゆ無いのにどうやってソバ食べたの??
少なくとも1を選ばなくて良かったということが、明らかになったのだった。そして私のソバカルボを食べたやるせなさは宙に消えていった。
2005年04月02日
今は亡き内藤三恭司へ
先日、およそ五年ぶりに内藤家に伺った。今まで行こう行こうと思いつつ、何故か足が遠のいていたけど、五年という節目の年に線香をあげることができてよかったと思う。
彼とは都立大に同期で入学した。どういう経緯でそうなったかは忘れたが、なにかと彼とはつるむことが多かった。彼とは何故か話しが合った。何時だったか彼が言ったことが今でも脳裏に焼き付いている。
「なんつーか、ちょっとノリについていけないよな」
当時、彼は私より2つ年上だったし、一度大学を中退し、フリーター生活を送ってから都立大に入ってきたという経歴があったからという意味で、高校を出たばかりの我々の雰囲気になじめなかったというのが、一番の理由だったと思う。
この理由からくるその言葉だったが、彼が本格的にワンゲルにその活動の拠点を見いだすまでは、大学での生活は2人で過ごすことが多かった。私は現役で入学したから、彼からすれば、最初はなじめない雰囲気を醸し出す奴らのひとりであっただろうけど、かくいう私も周りのノーテンキな雰囲気には正直なじめなかった。
私は高校生活を新宿で過ごした。新宿は混沌とした街であった。歌舞伎町で遊びまくった事はないが(我が母校の学生のほとんどは靖国通りの向こう側には縁のない生活を送るものだ。世界の坂本氏もそう語っていた気がする。)とはいえ、誘惑の多い所だった。丁度私が高校に入った年の秋に、新宿高島屋がオープンし、私を含め悪友たちはよく高島屋の屋上から、紫煙の掛かった東京の空を眺めていたものだった。無論、綿密に計算された出席日数を考慮しての、サボりである。紀伊國屋での立ち読みや、東急ハンズの冷やかしなどもほぼ日課であった。
我が家はビンボーだから、新宿の街で遊ぶ金などはなかったので、入学してから間もなく、ビル掃除のバイトを始めた。高校ではバイトは原則禁止だったが、ほぼ黙認状態であった。私は稼いだ金をカブに全てつぎ込んだ。周りは大学受験だ、部活だといっているなか、私はカブに熱中した。熱心に部活に誘ってくれた顧問の先生もおられたが、断固としてバイクに全てをつぎ込んだ。
そのような生活、ほぼ高校3年間で大学の1~2年の雰囲気を満喫した生活を送ってきた私にとって、わざわざ大学に入ってまでその延長を演じようとは思わなかった。そういう気分で大学生活のスタートに立った私と、彼の中の何かが共鳴したのかもしれなかった。
同じクラスの女の子に「あんたたちホモなの?!」と詰め寄られたこともあったが(彼女は三恭司に思いを寄せていたからだが。それにしても、高校時代も似たような経験があった私は、ちょっと不愉快であったが、彼は軽く流していた)、彼がワンゲルに馴染んでその活動に本腰を入れ、私もセローを手に入れ、オフロードに目覚めはじめてからは、それほど連んで行動する事はなくなった。
私は彼のご両親に話をずっとすべきだったのだ。そして先日ついにそれを果たすことが出来た。その日はatと共に行ったのだが、かくいうatとの出会いも三恭司なくして語れないものなのだ。そして、地誌学に興味を示していた彼の姿も伝えることが出来た。ワンゲル仲間からの目からではなく、地理学科の仲間から見た彼の姿を伝えることができた。ご両親は初耳だといっておられた。
その日は裁判の進捗状況なども話したが、時折涙ぐまれるご両親を目の当たりにして、この事件の重さを改めて実感した。帰り際、ご両親から渡されたのは、スーツだった。遺影で彼が着ているスーツだった。そのスーツを託された私は、今走り込みをしている。
三恭司のやろー、ガタイがいい割にはウエストこんなにしまってたんかい。と思いながら。意地でもスラックスにの寸法は直さない。
彼の遭難事故についてはここ。